静岡保徳株式会社

静岡保徳株式会社

德川慶喜公
足跡
HISTORY

※○内の数字は日付

西暦年号・月德川慶喜 関連事項静岡の動向国内の動向
1868明元132(6)鳥羽伏見の敗報を聞き大坂を脱出。海路江戸へ。(3)鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争始まる)
(7)慶喜追討令。
2(12)江戸城を出て上野寛永寺大慈院に謹慎。(14)西郷・勝会談。
江戸無血開城了解、慶喜の助命なる。
3(9)西郷隆盛・山岡鉄太郎駿府会談。慶喜の助命と德川家存続を要請。
4(4)慶喜、死一等を免ぜられる。
(11)江戸より水戸に移り、弘道館に謹慎。(11)官軍、江戸入城。
4(29)田安亀之助、德川家を相続。
5(25)德川家達駿府70万石に封じられる。
(3)奥羽列藩同盟成立
(15)上野彰義隊戦争。
7(19)慶喜、水戸より海路、駿府に移住。(2)新政府、駿府城を德川家に引き渡す。(17)江戸を東京に改称。
(23)清水湊に着き、夜半宝台院に入り謹慎。
8(9)家達、陸路江戸を発し、駿府に向かう。(13)駿府・遠江の各藩移封。
この月より旧幕臣の駿府移住始まる。
(19)榎本武揚、幕府軍艦8隻を率いて脱走。
(15)家達、駿府に入り宝台院の慶喜に会い、三の丸城代屋敷に入る。(26)天長節制定。
9仲秋、新門辰五郎、戊辰・上野戦争で戦死した子分の為、
上魚町常光寺に供養塔を建てる。
(8)駿府(静岡)学問所開校。
(13)幕府軍艦咸臨丸、清水港で官軍に砲撃される。
(29)遊撃隊を大番組、精鋭隊は新番組と改称。
(8)明治と改元
(22)会津藩降伏。
10     (13)江戸城が皇居となる
12 渋沢栄一、欧州より帰国し駿府宝台院の慶喜に面談。

(3)駿府町火消組織できる。
(10)沼津兵学校創立。

 
1869 明2 1 33 慶喜、德川家の隠居の身分となる。 (16)渋沢栄一、商法会所を元代官所に創立。  
2   (21)駿府病院開設。  
3    (18)東京遷都。
6(17)版籍奉還により家達、静岡藩知事となる。
(24)家達、城代屋敷より宮ヶ崎町新宮兵部邸に移る。
(8)駿府を静岡と改称。
駿府病院を静岡病院と改称。
(17)版籍奉還。
7   (1)新番組、牧ノ原開拓に入る。  
8   (27)商法会所を常平倉と改称。  
9 (28)慶喜、謹慎を解かれる。   
10 (5)紺屋町の元代官屋敷に居を移す。
(26)美賀子夫人、東京を発ち静岡に向かう。(11月3日着)
   
1870 明3 2 34     
5 この月、家達の新邸を新宮兵部邸東側に建設。 大井川・安倍川川越し廃止。 
1871 明4 4 35  静岡町火消発足。 (4)戸籍法を制定。
7 (17)廃藩置県により家達、藩知事を免ぜられる。 中村正直「西国立志編」刊行。
(14)静岡県・堀江県誕生。
(19)廃藩置県公布。
8 (27)家達、東京に転居。慶喜、静岡に止まり、德川宗家の家族となる。  (9)政府、散髪・廃刀の自由を認める。
9 この頃、新門辰五郎父娘東京へ移る。   
10  (25)E・Wクラーク来日、学問所附属伝習所設立。 
11  (11)静岡県・浜松県誕生。 
1872 明5 1 36 (1)『家扶日記』記載始まる。1・2月勢子を連れた鷹狩りを専ら行う。
その他、囲碁・乗馬・近村へ遊歩を行う。
(6)従四位に叙せられる。吹聴として勝・浅野・大久保宅へ出掛ける。
(12)家政向き変革で家従・家丁年間計12名を解雇。
   
2 (22)乗馬で建穂寺へ。(29)夫人、建穂寺参詣。 中村正直「自由の理」刊行。 福沢諭吉「学問のすすめ」刊行。
4 この月より清水港への投網行の回数が増える。    
6 (10)修善寺へ湯治(〜7月3日)。菊屋八弥方。    
7 (11)夫人修善寺・熱海へ湯治(〜8月10日)。
(13)馬車御者として渡辺徹雇い。
(25)馬車完成。(28)馬車にて清水港に投網に出掛ける。
(10)常平倉廃止。

(1)郵便施行。

8 (14)馬車故障。(27)以降馬車使用を止める。(3)静岡病院廃止。(3)学制を制定。
9(5)家令室賀竹堂、願により免ずる。(25)金谷大草他喜次郎松茸献上。
(以下後4季毎に手作りの産物を持参)
(7)静岡電信分局で電信開始。
(17)静岡学問所廃止。
(19)宮ヶ崎邸引き払い。
(13)新橋・横浜間鉄道開業。
10 (5)中条潜(景昭)初芋五俵献上(以後度々持参)   
11 (16)東京注文の人力車、清水港で受け取り。 静岡県、村々を徘徊する旧藩浪士等取締り通達。 (15)国立銀行条例制定。
1873 明6 1 37 1月から7月まで放鷹を盛んに行う。大井川、麻機、
瀬名、石田、小鹿、曲金、内牧等静岡近郊。
(27)米人クラーク、柏原学而を以て油画1枚献上。
(19)石坂周造ら相良油田発見。(1)太陽暦施行。
(4)天長節制定。

徴兵令制定。
3    (7)紀元節制定。
5 (13)梅沢守義、家達名代として久能山参詣
(以後、毎年慶喜邸の恒例行事となる)
   
6 この月より8月まで清水港への投網行多し。 谷口原開墾組、初めて茶を摘採し、
製茶を德川家達に献上。
(11)第一国立銀行設立。
10     (24)征韓派敗北。
西郷・板垣ら参議辞職。
11  (14)クラーク、文部省より開成学校教師を
命ぜられる。
 
1874 明7 1 38 この年、銃猟を盛んに行う。下島、麻機沼、馬渕、曲金、
稲川他清水山、八幡山、清水港、安倍川等で行う。
鉄砲師、横田町五右衛門が度々登場する。
(13)大迫貞清、静岡県権令就任。 
2(12)大迫貞清宅へ出向く。(13)大迫貞清入来。(4)佐賀の乱起こる。
3(26)西洋銃が試される。(24)宮崎総五の安水橋落成。
4 (9)マクドナルド、賤機舎教師に就任。
(15)旧幕府外国奉行栗本鋤雲、木邨霞宿ご機嫌伺いにいで、牛肉献上。
(夫人同伴で清水港に投網行で留守)
   
11 (23)アメリカ人夫婦、紺屋町邸の庭拝見。  (2)読売新聞創刊。
1875 明8   39 この年も、前年以上に銃猟に没頭する。三保、日本平有渡山等が加わる。
鉄砲師、五右衛門の出入り頻繁。
   
9   (17)新門辰五郎没。 
10 子女を里子に出すことを始める。    
11 この月金谷士族から薩摩芋が相次いで献上される。    
12 (4) 五右衛門に横浜で鉄砲を購入させる(二双筒)    
1876 明9 1 40 この年も銃猟に没頭する。宇津谷、岡部近在まで足を延ばす。
(8)二双筒が試される。
   
2 この月より松本金太郎の謡稽古始まる。
以後11年末まで毎日のように行われる。
   
3(18)家扶成田新十郎没(墓所宝台院)旧水戸藩御抱鉄砲師、
国友直(守義次男)静岡に移住。
以後、五右衛門に代わり国友の出入りが頻繁になる。
  (28)廃刀令。
4(12)成田金吾(新十郎息子)三等家従となる。
(20)梅沢覚(守義四男)三等家従となる。
(4)大迫貞清、県令に昇進。
(18)足柄県を廃し伊豆国を静岡県に合併。
 
6   (11)宇津の谷トンネル開通。
8  (8)大迫貞清、初代県令就任。
(21)浜松県を廃し静岡県に合併。
 
10 この月、20日あまり清水港へ投網行する。(29)屋形町、静岡病院開業。(24)熊本神風連の乱。
(27)大分秋月の乱。
(28)山口萩の乱。
1877 明10 1 41 (25)家扶荒井省吾没(墓所感応寺)   (15)西南の役起こる。
2      
4 (7)母登美宮(文明夫人)来岡。1ヵ月、種々の孝養を尽くす(〜5月8日)   (12)東京帝国大学開校。
5     (26)木戸孝允没
7 (1)三方原士族、間宮勇太郎はじめ60名、今般召募に応じ東京へ出向く為、
暇乞いに出る。
(5)文明夫人方へ油画(「夏の富士」)を送付。
   
9 (2)静寛宮逝去。 (24)西郷隆盛自刃。
12 (19)中島仰山(鍬次郎)より洋画紙類相届け並びに同人献上のパレット届く。 県、コレラ大流行に付予防徹底通達。  
1878 明11 4 42 (5)邸内花見宴(毎年の恒例行事で、一同に田楽が振る舞われる)   
5 (18)元幕府若年寄永井尚志、渋沢栄一ご機嫌伺いに出る。渋沢のみ会う。
(21)永井滞在先へ御筆並び目録を送る。
(15)静岡第三十五国立銀行開業。(1)パリ万国博覧会。
(14)大久保利通暗殺。
8 この月より以後、元幕臣の中より囲碁上手が選ばれ、囲碁稽古に没頭する。    
9 (25)土蔵に盗賊押し入る。(27)本日より非常番を置く。   
11 (3)山岡鉄太郎来訪、巡幸の際の参賀につき相談。
(4)天皇静岡巡幸。参賀をお断り、名代として梅沢守義出る。
1879 明12 1 43 この年、4月より再び放鷹、頻繁となる。
元雑司ヶ谷御鷹同心村越才助、駿府鷹匠柏原喜和三ら鷹匠を
師匠に大鷹・隼を使い放鷹。
  (25)朝日新聞創刊。
2 (7)勝安房へ返書(グラント将軍来日に関連)    
6   11月まで県下でコレラ大流行。  
7 (16)西国筋コレラ流行につき、予防厳重について通達、
巡査見廻りのため庭検査。
(1)グランド前米大統領、
コレラを避けて清水港上陸。
(3)グランド前米大統領、横浜着。
10   旧幕臣吉見義次、呉服町に書店開業。  
1880 明13   44 この年、放鷹・囲碁稽古、並びに雉子笛に関心を持ち作成に没頭する。
軽業師・浄瑠璃語り・講釈師等を屋敷に呼び娯楽が増える。
   
5 (18)正二位に叙せられ、将軍の旧位に復する。   
11 (15)大礼服出来、東京より届く。   
1881 明14 3 45 (26)鯨ヶ池に打払い(鴨猟)獲物 鴨・雁・鴦等計80羽。
(20)家令梅沢守喜没(沓谷霊園大正7年改葬)
   
6 (11)小栗尚三、梅沢の後任として家扶就任。新村猛雄家扶格(15年家扶)
梅沢覚・成田藤十郎、二等家従を任命
(この年、家扶・家従・家丁の年俸表示)
   
7 長女鏡子、天璋院様手元御滞留の為、出京。    
11 (18)遊猟御鑑礼役場より出る。本年より改正にて
10月15日より15年4月15日まで。
   
12   (18)清水港開業。
1882 明15 2 46(4)德川昭武(慶喜弟)来岡。同伴して銃猟(〜(9)(5)静岡・浜松間に馬車運行。
(11)自由党党首板垣退助県下遊説。
岳南自由党の党勢拡大。
(20)上野公園に動物園・博物館開館。
4    (6)板垣退助、岐阜で遭難。
5(23)東京小梅家丁大串貫齋、洋犬引き連れ到着。   
7(4)三位様(昭武)御依頼の二連銃及び付属機械到来。  (23)壬午事変。
8 (23)流行病(コレラ)消滅につき、今日より約1ヶ月ぶりに平常勤務に戻る。   
10 (20)村上真・倉持鎌次郎四等家従命じられる。
(23)熱海に湯治の母文明夫人を迎えに行く。
(31)同道し着岡。(〜11月10日)
   
11(6)四男厚、華族に列さられ、分家。 (9)本日より若様、殿様と向後申し上げる。
(30)一色良太郎(一色素賀の甥)四等家従となる。
   
12    (1)福島事件。
1883 明16 1 47(10)大井川筋へ遊猟、藤枝から榛原郡大幡村(吉田町)
八木平七郎方へ遊猟(〜(12)
   
2(23)大井川筋へ遊猟、八木方へ宿泊(〜(26)   
6 (3)能楽師松本金太郎、暇乞いし上京。
(26)一条明子、出京の途次静岡へ一泊。夫人面談。
(10)元老院議官関口隆吉、県下巡察(〜(20) 
7     (20)岩倉具視没。
8 (2)殿様(厚)水泳稽古の為、清水向島温泉へ出掛け、慶喜もその後出向く
(〜(21))。翌月7月も同様の記事。
(4)静岡銀行、呉服町に設立。
(17)静岡英学校開校。
 
10 (6)一条明子より皇后美子への拝謁の件、了解の旨、夫人へ直書届く。
(14)この件に関し宗家より見合わせるよう手紙届く。
   
11 (21)天璋院逝去。静岡県士族同胞会員650名。惣代梅沢敏(梅沢守義三男)、
小泉武謙らご機嫌伺いに出る。
   
12 (13)石坂哲(周造)、ご機嫌伺いに出でお会いになる。(13)県令大迫貞清、警視総監として転出。
(15)奈良原繁、県令就任。
 
1884 明17 1 48 1月より4月まで毎月遠州方面へ遊猟。    
4 (28)天璋院遺物届けれられる。慶喜以下家族(10人)、家扶・家従(7人)、
女中(15人)、家丁・門番・小遣等(14人)に遺物が分配される。計46名。
  (16)群馬事件。
6(1)本日より巡査配置(1ヵ年費用250円)   
7(10)厚に男爵が授けられる。(10)德川家達、公爵となる。    
8御子様方同道、清水へ。    
9 (23)家扶千田実没(墓所長源院) (27)関口隆吉、静岡県令就任。(23)自由党員ら加波山事件起こす。
10     (31)秩父事件。
11 (7)平石波三郎、二等家従に就任。
(8)関口隆吉、静岡県令就任挨拶に出向き合う。
(22)熱海に湯治。(29)鏡子と熱海で対面。
   
1885 明18 2 49 (8)德川昭武来岡(〜(19))同道して金谷・浜松方面へ遊猟。   
3 (20)より5月まで慶喜夫婦、入歯作成の為入歯師佐々木、度々出る。   
6 (28)姫様方の名前に「子」の字を使う件につき華族局より通達。   
8   (1)静岡・三島間馬車運行開始。 
10   静岡両替町に西洋料理・洋菓子・食パンの
静昇軒開店。
 
12 (12)天璋院御半身御像、先年注文の油画、川村清雄より到着。   (22)第一次伊藤博文内閣成立。
1886 明19 6 50   (11)静岡事件発覚。湊省太郎ら東京で逮捕。 
7 (11)德信院直子来岡。久能山・浅間神社・清水港等に
同道し孝養を尽くす(〜(21))。
(17)写真師出頭、お庭の景色写真撮る。
(11)静岡追手町に教導石落成。
(20)府県制により関口隆吉、初代静岡県知事となる。
 
11 (3)母文明夫人病気見舞いの為、維新後初めて上京(〜(17))。
(28)西洋料理、家臣陪食する。
   
1887 明20 2 51 自転車を東京に注文。運動の為自転車に乗る。自転車お供の為、
洋服・靴料を家従に与える。
   
6   (20)小川座、若竹座と改称。 
10 秋頃より西草深邸宅新築始まる。    
1888 明21   52 この年も運動の為、自転車に熱中する。  
3(6)西草深町227番地の新邸に移る。
(30)德川昭武来岡(〜4月7日)
  
4  (30)黒田清隆内閣発足。
5 (1)久能山東照宮、別格官弊社となる。 
6(20)従一位に叙せられる。  
7 (9)小梅様依頼の鉄砲照星到着。(10)鉄砲試射の為上足洗高木方へ
(19)山岡鉄舟没。(31)大久保一翁没。
  (15)磐梯山噴火。
10 (21)德川家達静岡に帰省(〜(30))。
旧士族1,500人と面謁し、士族・子弟教育補助として
金5,000円・山林48町歩を寄付。
滞在中慶喜同道して大崩隧道・大井川鉄橋の東海道線工事見学、
久能山・宝台院、浅間神社、臨済寺、華陽院、清見寺、
柴屋寺・德願寺の参詣を行う。
  
1889 明22 253 (1)東海道線静岡・東京間開通。
東海道鉄道安倍川鉄橋完成。
(11)大日本帝国憲法発布。
衆議院議員法・議員法、
貴族院令公布。
4 (11)丸子新田の東海道鉄道で機関車衝突事故。
関口知事ら負傷。
(13)上京、松戸昭武邸・塩原・日光・水戸を回り、5月20日帰岡。
(1)静岡市制施行。
(16)東海道線静岡・浜松間開通。
 
5(17)県知事関口隆吉、列車事故が元で死去。  
6 (18)時任為基、知事就任。 
7(12)德川昭武来岡(〜(16))この月、旧静岡藩士族子弟学費の補助金を出す。  (1)東海道鉄道全通。
8(10)西周ご機嫌伺いに出る。  
9(8)榎本武揚ご機嫌伺いに出る。  
12  (24)第1次山県内閣。
1890 明23 7 54(6)野崎彦左衛門、尾崎伊兵衛、森作太郎が旧紺屋町邸3145坪、
建物6棟、204坪を7500円で買取。
  (1)第1回総選挙。
1891 明24 2 55 母文明夫人米寿の祝いに上京(〜(22)  
5(19)夫人の第1回目の乳ガン手術が高松凌雲の執刀で行われる
(詳細な手術経過が記される)
料亭浮月亭開業。
 (6)第1次松方内閣。
6(16)二人の側室(幸・信)に夜の伽を免ずる旨、達しある。(7)中村正直没。 
7   (1)府県制施行。
1892 明25 1 56 (9)旧紺屋町邸、七間町3丁目からの出火で焼失。   
2     (15)第2回総選挙。
5 (17)德川昭武・同達孝来岡(〜(20)  (8)第二次伊藤博文内閣。
6 (10)杉本大治郎、辻より経営を引き継ぎ、料亭浮月楼を開業。    
8   (20)小松原英太郎、知事就任。
静岡商業会議所設立。
 
1893 明26   57 この年初めより、度々德田孝吉に写真撮影習う。    
1 (1)渋沢栄一、夫人とともに来岡。三遊亭円朝を同伴。
(2)德信院直子(一橋家)逝去。
(11)夫人の第2回目の乳ガン手術。執刀佐藤進、検分役柏原学而。
(27)母文明夫人逝去の為上京(〜3月7日)
(19)県、威し銃取締規定制定。 
3 この月より6月まで自転車で市内・郊外に出掛ける。   
5(9)注文の自転車が汽車便で神奈川より届く。   
7(5)より写真撮影に没頭し、安倍川・久能山・臨済寺
・浅間神社に撮影の為度々出掛ける。
(10)自由党静岡支部発足。
(23)沼津御用邸完成。
 
10(11)德川家達、西草深邸に滞在(〜(13))。
(20)德川昭武・篤敬来岡し同伴して撮影に富士川・鈴川・舞阪に出掛ける。
   
1894 明27 3 58  (18)静岡市庁舎、新館落成。 
5(19)美賀子夫人病気療養の為上京。   
7(9)焼津で撮影の時、夫人危篤の電報が届き(午前10時夫人逝去)上京。
(11)帰岡
   
8    (1)日清戦争始まる。
1895 明28  59 この年も写真撮影行に没頭する。   
2(1)植木屋伊勢屋その他の者一同撮影。   
4(29)臨済寺の宝物撮影する。  (17)日清講和条約調印。
9(15)汽車通過の様子を写真撮影。  (17)日清講和条約調印。
1896 明29 3 60 (3)大礼服着用写真、達孝・達道・厚・三位様に送付。   
4     (6)第1回近代オリンピック
大会開幕。
10(14)東京移転の内達あり。   
1897 明30 3 61    (29)貨幣法公布。
4  (7)千家尊福、知事就任。 
10(21)東京移転、日付11月19日と内定。   
11(7)東京移転の道順を変更。熱海立ち寄りとする。(16)静岡を発ち東京に。
(19)東京巣鴨邸に入る。
   
1898 明31 3 62 (2)初めて参内し天皇に拝謁。   
1902 明35 6 66 (2)勅使により宗家より分家し、公爵を授けられる。    
1908 明41 4 72 (30)勲一等旭日大綬章を受ける   
1910 明43 12 74(8)家督を七男慶久に譲り隠居。   
1913 大2 11 77(22)逝去。上野谷中の霊園に葬られる   

◇本年表は、德川慶喜静岡在住の30年間に重点をおき、『家扶日記』主体に作成した。
◇年表は、主要部分のみを掲載した。

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