德川慶喜公
足跡
HISTORY
※○内の数字は日付
西暦 | 年号・月 | 齢 | 德川慶喜 関連事項 | 静岡の動向 | 国内の動向 | |
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1868 | 明元 | 1 | 32 | 鳥羽伏見の敗報を聞き大坂を脱出。海路江戸へ。 | 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争始まる) | |
慶喜追討令。 | ||||||
2 | 江戸城を出て上野寛永寺大慈院に謹慎。 | 西郷・勝会談。 江戸無血開城了解、慶喜の助命なる。 |
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3 | 西郷隆盛・山岡鉄太郎駿府会談。慶喜の助命と德川家存続を要請。 | |||||
4 | 慶喜、死一等を免ぜられる。 | |||||
江戸より水戸に移り、弘道館に謹慎。 | 官軍、江戸入城。 | |||||
閏 | 4 | 田安亀之助、德川家を相続。 | ||||
5 | 德川家達駿府70万石に封じられる。 奥羽列藩同盟成立 上野彰義隊戦争。 |
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7 | 慶喜、水戸より海路、駿府に移住。 | 新政府、駿府城を德川家に引き渡す。 | 江戸を東京に改称。 | |||
清水湊に着き、夜半宝台院に入り謹慎。 | ||||||
8 | 家達、陸路江戸を発し、駿府に向かう。 | 駿府・遠江の各藩移封。 この月より旧幕臣の駿府移住始まる。 | 榎本武揚、幕府軍艦8隻を率いて脱走。 | |||
家達、駿府に入り宝台院の慶喜に会い、三の丸城代屋敷に入る。 | 天長節制定。 | |||||
9 | 仲秋、新門辰五郎、戊辰・上野戦争で戦死した子分の為、 上魚町常光寺に供養塔を建てる。 | 駿府(静岡)学問所開校。 幕府軍艦咸臨丸、清水港で官軍に砲撃される。 遊撃隊を大番組、精鋭隊は新番組と改称。 | 明治と改元 会津藩降伏。 |
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10 | 江戸城が皇居となる | |||||
12 | 渋沢栄一、欧州より帰国し駿府宝台院の慶喜に面談。 | 駿府町火消組織できる。 |
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1869 | 明2 | 1 | 33 | 慶喜、德川家の隠居の身分となる。 | 渋沢栄一、商法会所を元代官所に創立。 | |
2 | 駿府病院開設。 | |||||
3 | 東京遷都。 | |||||
6 | 版籍奉還により家達、静岡藩知事となる。 家達、城代屋敷より宮ヶ崎町新宮兵部邸に移る。 |
駿府を静岡と改称。 駿府病院を静岡病院と改称。 |
版籍奉還。 | |||
7 | 新番組、牧ノ原開拓に入る。 | |||||
8 | 商法会所を常平倉と改称。 | |||||
9 | 慶喜、謹慎を解かれる。 | |||||
10 | 紺屋町の元代官屋敷に居を移す。 美賀子夫人、東京を発ち静岡に向かう。(11月3日着) | |||||
1870 | 明3 | 2 | 34 | |||
5 | この月、家達の新邸を新宮兵部邸東側に建設。 | 大井川・安倍川川越し廃止。 | ||||
1871 | 明4 | 4 | 35 | 静岡町火消発足。 | 戸籍法を制定。 | |
7 | 廃藩置県により家達、藩知事を免ぜられる。 | 中村正直「西国立志編」刊行。 静岡県・堀江県誕生。 |
廃藩置県公布。 | |||
8 | 家達、東京に転居。慶喜、静岡に止まり、德川宗家の家族となる。 | 政府、散髪・廃刀の自由を認める。 | ||||
9 | この頃、新門辰五郎父娘東京へ移る。 | |||||
10 | E・Wクラーク来日、学問所附属伝習所設立。 | |||||
11 | 静岡県・浜松県誕生。 | |||||
1872 | 明5 | 1 | 36 | 『家扶日記』記載始まる。1・2月勢子を連れた鷹狩りを専ら行う。 その他、囲碁・乗馬・近村へ遊歩を行う。 従四位に叙せられる。吹聴として勝・浅野・大久保宅へ出掛ける。 家政向き変革で家従・家丁年間計12名を解雇。 |
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2 | 乗馬で建穂寺へ。夫人、建穂寺参詣。 | 中村正直「自由の理」刊行。 | 福沢諭吉「学問のすすめ」刊行。 | |||
4 | この月より清水港への投網行の回数が増える。 | |||||
6 | 修善寺へ湯治(〜7月3日)。菊屋八弥方。 | |||||
7 | 夫人修善寺・熱海へ湯治(〜8月10日)。 馬車御者として渡辺徹雇い。 馬車完成。馬車にて清水港に投網に出掛ける。 |
常平倉廃止。 | 郵便施行。 |
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8 | 馬車故障。以降馬車使用を止める。 | 静岡病院廃止。 | 学制を制定。 | |||
9 | 家令室賀竹堂、願により免ずる。金谷大草他喜次郎松茸献上。 (以下後4季毎に手作りの産物を持参) | 静岡電信分局で電信開始。 静岡学問所廃止。 宮ヶ崎邸引き払い。 | 新橋・横浜間鉄道開業。 | |||
10 | 中条潜(景昭)初芋五俵献上(以後度々持参) | |||||
11 | 東京注文の人力車、清水港で受け取り。 | 静岡県、村々を徘徊する旧藩浪士等取締り通達。 | 国立銀行条例制定。 | |||
1873 | 明6 | 1 | 37 | 1月から7月まで放鷹を盛んに行う。大井川、麻機、 瀬名、石田、小鹿、曲金、内牧等静岡近郊。 米人クラーク、柏原学而を以て油画1枚献上。 |
石坂周造ら相良油田発見。 | 太陽暦施行。 天長節制定。 徴兵令制定。 |
3 | 紀元節制定。 | |||||
5 | 梅沢守義、家達名代として久能山参詣 (以後、毎年慶喜邸の恒例行事となる) | |||||
6 | この月より8月まで清水港への投網行多し。 | 谷口原開墾組、初めて茶を摘採し、 製茶を德川家達に献上。 |
第一国立銀行設立。 | |||
10 | 征韓派敗北。 西郷・板垣ら参議辞職。 |
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11 | クラーク、文部省より開成学校教師を 命ぜられる。 |
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1874 | 明7 | 1 | 38 | この年、銃猟を盛んに行う。下島、麻機沼、馬渕、曲金、 稲川他清水山、八幡山、清水港、安倍川等で行う。 鉄砲師、横田町五右衛門が度々登場する。 | 大迫貞清、静岡県権令就任。 | |
2 | 大迫貞清宅へ出向く。大迫貞清入来。 | 佐賀の乱起こる。 | ||||
3 | 西洋銃が試される。 | 宮崎総五の安水橋落成。 | ||||
4 | マクドナルド、賤機舎教師に就任。 旧幕府外国奉行栗本鋤雲、木邨霞宿ご機嫌伺いにいで、牛肉献上。 (夫人同伴で清水港に投網行で留守) |
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11 | アメリカ人夫婦、紺屋町邸の庭拝見。 | 読売新聞創刊。 | ||||
1875 | 明8 | 39 | この年も、前年以上に銃猟に没頭する。三保、日本平有渡山等が加わる。 鉄砲師、五右衛門の出入り頻繁。 |
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9 | 新門辰五郎没。 | |||||
10 | 子女を里子に出すことを始める。 | |||||
11 | この月金谷士族から薩摩芋が相次いで献上される。 | |||||
12 | 五右衛門に横浜で鉄砲を購入させる(二双筒) | |||||
1876 | 明9 | 1 | 40 | この年も銃猟に没頭する。宇津谷、岡部近在まで足を延ばす。 二双筒が試される。 |
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2 | この月より松本金太郎の謡稽古始まる。 以後11年末まで毎日のように行われる。 |
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3 | 家扶成田新十郎没(墓所宝台院)旧水戸藩御抱鉄砲師、 国友直(守義次男)静岡に移住。 以後、五右衛門に代わり国友の出入りが頻繁になる。 | 廃刀令。 | ||||
4 | 成田金吾(新十郎息子)三等家従となる。 梅沢覚(守義四男)三等家従となる。 | 大迫貞清、県令に昇進。 足柄県を廃し伊豆国を静岡県に合併。 | ||||
6 | 宇津の谷トンネル開通。 | |||||
8 | 大迫貞清、初代県令就任。 浜松県を廃し静岡県に合併。 | |||||
10 | この月、20日あまり清水港へ投網行する。 | 屋形町、静岡病院開業。 | 熊本神風連の乱。 大分秋月の乱。 山口萩の乱。 |
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1877 | 明10 | 1 | 41 | 家扶荒井省吾没(墓所感応寺) | 西南の役起こる。 | |
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4 | 母登美宮(文明夫人)来岡。1ヵ月、種々の孝養を尽くす(〜5月8日) | 東京帝国大学開校。 | ||||
5 | 木戸孝允没 | |||||
7 | 三方原士族、間宮勇太郎はじめ60名、今般召募に応じ東京へ出向く為、 暇乞いに出る。 文明夫人方へ油画(「夏の富士」)を送付。 | |||||
9 | 静寛宮逝去。 | 西郷隆盛自刃。 | ||||
12 | 中島仰山(鍬次郎)より洋画紙類相届け並びに同人献上のパレット届く。 | 県、コレラ大流行に付予防徹底通達。 | ||||
1878 | 明11 | 4 | 42 | 邸内花見宴(毎年の恒例行事で、一同に田楽が振る舞われる) | ||
5 | 元幕府若年寄永井尚志、渋沢栄一ご機嫌伺いに出る。渋沢のみ会う。 永井滞在先へ御筆並び目録を送る。 | 静岡第三十五国立銀行開業。 | パリ万国博覧会。 大久保利通暗殺。 |
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8 | この月より以後、元幕臣の中より囲碁上手が選ばれ、囲碁稽古に没頭する。 | |||||
9 | 土蔵に盗賊押し入る。本日より非常番を置く。 | |||||
11 | 山岡鉄太郎来訪、巡幸の際の参賀につき相談。 天皇静岡巡幸。参賀をお断り、名代として梅沢守義出る。 | |||||
1879 | 明12 | 1 | 43 | この年、4月より再び放鷹、頻繁となる。 元雑司ヶ谷御鷹同心村越才助、駿府鷹匠柏原喜和三ら鷹匠を 師匠に大鷹・隼を使い放鷹。 |
朝日新聞創刊。 | |
2 | 勝安房へ返書(グラント将軍来日に関連) | |||||
6 | 11月まで県下でコレラ大流行。 | |||||
7 | 西国筋コレラ流行につき、予防厳重について通達、 巡査見廻りのため庭検査。 |
グランド前米大統領、 コレラを避けて清水港上陸。 |
グランド前米大統領、横浜着。 | |||
10 | 旧幕臣吉見義次、呉服町に書店開業。 | |||||
1880 | 明13 | 44 | この年、放鷹・囲碁稽古、並びに雉子笛に関心を持ち作成に没頭する。 軽業師・浄瑠璃語り・講釈師等を屋敷に呼び娯楽が増える。 |
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5 | 正二位に叙せられ、将軍の旧位に復する。 | |||||
11 | 大礼服出来、東京より届く。 | |||||
1881 | 明14 | 3 | 45 | 鯨ヶ池に打払い(鴨猟)獲物 鴨・雁・鴦等計80羽。 家令梅沢守喜没(沓谷霊園大正7年改葬) | ||
6 | 小栗尚三、梅沢の後任として家扶就任。新村猛雄家扶格(15年家扶) 梅沢覚・成田藤十郎、二等家従を任命 (この年、家扶・家従・家丁の年俸表示) |
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7 | 長女鏡子、天璋院様手元御滞留の為、出京。 | |||||
11 | 遊猟御鑑礼役場より出る。本年より改正にて 10月15日より15年4月15日まで。 |
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12 | 清水港開業。 | |||||
1882 | 明15 | 2 | 46 | 德川昭武(慶喜弟)来岡。同伴して銃猟(〜) | 静岡・浜松間に馬車運行。 自由党党首板垣退助県下遊説。 岳南自由党の党勢拡大。 | 上野公園に動物園・博物館開館。 |
4 | 板垣退助、岐阜で遭難。 | |||||
5 | 東京小梅家丁大串貫齋、洋犬引き連れ到着。 | |||||
7 | 三位様(昭武)御依頼の二連銃及び付属機械到来。 | 壬午事変。 | ||||
8 | 流行病(コレラ)消滅につき、今日より約1ヶ月ぶりに平常勤務に戻る。 | |||||
10 | 村上真・倉持鎌次郎四等家従命じられる。 熱海に湯治の母文明夫人を迎えに行く。 同道し着岡。(〜11月10日) | |||||
11 | 四男厚、華族に列さられ、分家。 本日より若様、殿様と向後申し上げる。 一色良太郎(一色素賀の甥)四等家従となる。 | |||||
12 | 福島事件。 | |||||
1883 | 明16 | 1 | 47 | 大井川筋へ遊猟、藤枝から榛原郡大幡村(吉田町) 八木平七郎方へ遊猟(〜) | ||
2 | 大井川筋へ遊猟、八木方へ宿泊(〜) | |||||
6 | 能楽師松本金太郎、暇乞いし上京。 一条明子、出京の途次静岡へ一泊。夫人面談。 |
元老院議官関口隆吉、県下巡察(〜) | ||||
7 | 岩倉具視没。 | |||||
8 | 殿様(厚)水泳稽古の為、清水向島温泉へ出掛け、慶喜もその後出向く (〜)。翌月7月も同様の記事。 | 静岡銀行、呉服町に設立。 静岡英学校開校。 | ||||
10 | 一条明子より皇后美子への拝謁の件、了解の旨、夫人へ直書届く。 この件に関し宗家より見合わせるよう手紙届く。 | |||||
11 | 天璋院逝去。静岡県士族同胞会員650名。惣代梅沢敏(梅沢守義三男)、 小泉武謙らご機嫌伺いに出る。 |
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12 | 石坂哲(周造)、ご機嫌伺いに出でお会いになる。 | 県令大迫貞清、警視総監として転出。 奈良原繁、県令就任。 | ||||
1884 | 明17 | 1 | 48 | 1月より4月まで毎月遠州方面へ遊猟。 | ||
4 | 天璋院遺物届けれられる。慶喜以下家族(10人)、家扶・家従(7人)、 女中(15人)、家丁・門番・小遣等(14人)に遺物が分配される。計46名。 |
群馬事件。 | ||||
6 | 本日より巡査配置(1ヵ年費用250円) | |||||
7 | 厚に男爵が授けられる。德川家達、公爵となる。 | |||||
8 | 御子様方同道、清水へ。 | |||||
9 | 家扶千田実没(墓所長源院) | 関口隆吉、静岡県令就任。 | 自由党員ら加波山事件起こす。 | |||
10 | 秩父事件。 | |||||
11 | 平石波三郎、二等家従に就任。 関口隆吉、静岡県令就任挨拶に出向き合う。 熱海に湯治。鏡子と熱海で対面。 | |||||
1885 | 明18 | 2 | 49 | 德川昭武来岡(〜)同道して金谷・浜松方面へ遊猟。 | ||
3 | より5月まで慶喜夫婦、入歯作成の為入歯師佐々木、度々出る。 | |||||
6 | 姫様方の名前に「子」の字を使う件につき華族局より通達。 | |||||
8 | 静岡・三島間馬車運行開始。 | |||||
10 | 静岡両替町に西洋料理・洋菓子・食パンの 静昇軒開店。 | |||||
12 | 天璋院御半身御像、先年注文の油画、川村清雄より到着。 | 第一次伊藤博文内閣成立。 | ||||
1886 | 明19 | 6 | 50 | 静岡事件発覚。湊省太郎ら東京で逮捕。 | ||
7 | 德信院直子来岡。久能山・浅間神社・清水港等に 同道し孝養を尽くす(〜)。 写真師出頭、お庭の景色写真撮る。 | 静岡追手町に教導石落成。 府県制により関口隆吉、初代静岡県知事となる。 |
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11 | 母文明夫人病気見舞いの為、維新後初めて上京(〜)。 西洋料理、家臣陪食する。 | |||||
1887 | 明20 | 2 | 51 | 自転車を東京に注文。運動の為自転車に乗る。自転車お供の為、 洋服・靴料を家従に与える。 |
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6 | 小川座、若竹座と改称。 | |||||
10 | 秋頃より西草深邸宅新築始まる。 | |||||
1888 | 明21 | 52 | この年も運動の為、自転車に熱中する。 | |||
3 | 西草深町227番地の新邸に移る。 德川昭武来岡(〜4月7日) | |||||
4 | 黒田清隆内閣発足。 | |||||
5 | 久能山東照宮、別格官弊社となる。 | |||||
6 | 従一位に叙せられる。 | |||||
7 | 小梅様依頼の鉄砲照星到着。鉄砲試射の為上足洗高木方へ 山岡鉄舟没。大久保一翁没。 | 磐梯山噴火。 | ||||
10 | 德川家達静岡に帰省(〜)。 旧士族1,500人と面謁し、士族・子弟教育補助として 金5,000円・山林48町歩を寄付。 滞在中慶喜同道して大崩隧道・大井川鉄橋の東海道線工事見学、 久能山・宝台院、浅間神社、臨済寺、華陽院、清見寺、 柴屋寺・德願寺の参詣を行う。 | |||||
1889 | 明22 | 2 | 53 | 東海道線静岡・東京間開通。 東海道鉄道安倍川鉄橋完成。 | 大日本帝国憲法発布。 衆議院議員法・議員法、 貴族院令公布。 |
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4 | 丸子新田の東海道鉄道で機関車衝突事故。 関口知事ら負傷。 上京、松戸昭武邸・塩原・日光・水戸を回り、5月20日帰岡。 |
静岡市制施行。 東海道線静岡・浜松間開通。 | ||||
5 | 県知事関口隆吉、列車事故が元で死去。 | |||||
6 | 時任為基、知事就任。 | |||||
7 | 德川昭武来岡(〜)この月、旧静岡藩士族子弟学費の補助金を出す。 | 東海道鉄道全通。 | ||||
8 | 西周ご機嫌伺いに出る。 | |||||
9 | 榎本武揚ご機嫌伺いに出る。 | |||||
12 | 第1次山県内閣。 | |||||
1890 | 明23 | 7 | 54 | 野崎彦左衛門、尾崎伊兵衛、森作太郎が旧紺屋町邸3145坪、 建物6棟、204坪を7500円で買取。 | 第1回総選挙。 | |
1891 | 明24 | 2 | 55 | 母文明夫人米寿の祝いに上京(〜) | ||
5 | 夫人の第1回目の乳ガン手術が高松凌雲の執刀で行われる (詳細な手術経過が記される) 料亭浮月亭開業。 | 第1次松方内閣。 | ||||
6 | 二人の側室(幸・信)に夜の伽を免ずる旨、達しある。 | 中村正直没。 | ||||
7 | 府県制施行。 | |||||
1892 | 明25 | 1 | 56 | 旧紺屋町邸、七間町3丁目からの出火で焼失。 | ||
2 | 第2回総選挙。 | |||||
5 | 德川昭武・同達孝来岡(〜) | 第二次伊藤博文内閣。 | ||||
6 | 杉本大治郎、辻より経営を引き継ぎ、料亭浮月楼を開業。 | |||||
8 | 小松原英太郎、知事就任。 静岡商業会議所設立。 | |||||
1893 | 明26 | 57 | この年初めより、度々德田孝吉に写真撮影習う。 | |||
1 | 渋沢栄一、夫人とともに来岡。三遊亭円朝を同伴。 德信院直子(一橋家)逝去。 夫人の第2回目の乳ガン手術。執刀佐藤進、検分役柏原学而。 母文明夫人逝去の為上京(〜3月7日) |
県、威し銃取締規定制定。 | ||||
3 | この月より6月まで自転車で市内・郊外に出掛ける。 | |||||
5 | 注文の自転車が汽車便で神奈川より届く。 | |||||
7 | より写真撮影に没頭し、安倍川・久能山・臨済寺 ・浅間神社に撮影の為度々出掛ける。 | 自由党静岡支部発足。 沼津御用邸完成。 | ||||
10 | 德川家達、西草深邸に滞在(〜)。 德川昭武・篤敬来岡し同伴して撮影に富士川・鈴川・舞阪に出掛ける。 | |||||
1894 | 明27 | 3 | 58 | 静岡市庁舎、新館落成。 | ||
5 | 美賀子夫人病気療養の為上京。 | |||||
7 | 焼津で撮影の時、夫人危篤の電報が届き(午前10時夫人逝去)上京。 帰岡 | |||||
8 | 日清戦争始まる。 | |||||
1895 | 明28 | 59 | この年も写真撮影行に没頭する。 | |||
2 | 植木屋伊勢屋その他の者一同撮影。 | |||||
4 | 臨済寺の宝物撮影する。 | 日清講和条約調印。 | ||||
9 | 汽車通過の様子を写真撮影。 | 日清講和条約調印。 | ||||
1896 | 明29 | 3 | 60 | 大礼服着用写真、達孝・達道・厚・三位様に送付。 | ||
4 | 第1回近代オリンピック 大会開幕。 |
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10 | 東京移転の内達あり。 | |||||
1897 | 明30 | 3 | 61 | 貨幣法公布。 | ||
4 | 千家尊福、知事就任。 | |||||
10 | 東京移転、日付11月19日と内定。 | |||||
11 | 東京移転の道順を変更。熱海立ち寄りとする。静岡を発ち東京に。 東京巣鴨邸に入る。 | |||||
1898 | 明31 | 3 | 62 | 初めて参内し天皇に拝謁。 | ||
1902 | 明35 | 6 | 66 | 勅使により宗家より分家し、公爵を授けられる。 | ||
1908 | 明41 | 4 | 72 | 勲一等旭日大綬章を受ける | ||
1910 | 明43 | 12 | 74 | 家督を七男慶久に譲り隠居。 | ||
1913 | 大2 | 11 | 77 | 逝去。上野谷中の霊園に葬られる |
◇本年表は、德川慶喜静岡在住の30年間に重点をおき、『家扶日記』主体に作成した。
◇年表は、主要部分のみを掲載した。
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